島原 の 子守 唄。 雑感 ・島原の子守唄

昭和24 年(1949) 、天皇が長崎巡幸の途次、島原半島を訪問する旨が伝えられました。 前半のメロディが山梨県韮崎 (にらさき) 地方の民謡『縁故節』とそっくりだということです。 同年、 康平は島原鉄道の依頼で『島原鉄道観光の歌』を作詞します。

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七里岩に建立された釣り鐘は、それからは心豊かに、朝六時から夜八時までの一時間置きに、韮崎の里に鳴り響いた。

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おそらく領民の税負担の軽減を図ったものと考えられる翌年の寛文十一年、戸田忠昌は関東へ移封されて、天領になった天草の最初の代官には小川正辰が任命されている。 『えぐえぐ節』はジャガイモをテーマとした歌で、江戸初期に日本に入ったとされるジャガイモ(ジャガタライモ) がこの時期にようやく普及し始めたことを物語っています。

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もともと、民謡は上着民族の貧しい叫びであるから、全国的にも血のつながった感情が普通的に唄われていたとしても、それは当然かもしれない。 昭和初期に韮崎市の有志がこの歌に伴奏と振りをつけ、盆踊りなどで歌い、踊られるようになったようです。 失意の中で、泣く子をあやすうちに出来たといわれる子守唄は、昭和32年 1957年 、島倉千代子の歌でレコード化され、広く知られるようになりました。

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然し富岡氏の労苦も、水の無い、風の強い此の地方は、裁培に不適当で離農する者が多く、明治二十年代には武士出の人は、三井亀六という人が只一人であったが、この人も若くして死んでしまい、結局は実らなかったという事ではなかろうか。 このように、 子守唄には当時奉公していた女性の恨みや妬みなどを唄ったものも多い。

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「バテレン」とは、キリスト教またはその司祭や宣教師、信者のこと。 スポンサードリンク また地方によっては、歌詞がまるで違うものも多いもの。 「いや、実は私もわからないのです。

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