天明 の 飢饉。 天明の大飢饉ってなんのこと? - 日本史用語集

実はこれらの地名は、子殺しの風習からつけられました。 歴史上たびたび飢饉が起こり凄惨な経験をしてきた日本人は、 江戸時代を通じて飢饉や災害、疫病の蔓延は人間の奢(おご)りが招いた「天の戒め」「天罰」であるとする捉え方をし、社会通念としてきた。 稗 とくに 天明の大飢饉は、凶作に 浅間山の噴火が重なって、それはひどい様子だったといいます。

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『日本書紀』には飢餓の記録が頻出します。 また、享保の打ちこわしでは幕府は享保の打ちこわしに関わった中心人物を流罪に処しました。

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凶作のため米の価格は上がって、庶民の生活は大変苦しくなりました。 今日の私たちの暮らしはどうでしょうか。

まず小役米、年貢、畑年貢を半ば通り御免、利米を一割御免、又は諸年貢にも御免等の恩恵をあたえ、又、貧困の者に対しては、利息なしに米の貸しつけを行ったり、米の値段を十文安にして貧民に食わせるなど、特に貧困の者に対しては米味噌、うどん、みがきにしんなどの食糧をほどこした。

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天明の大飢饉 1782年(天明 2)から 1787年(天明 7)に全国(特に東北地方)で起きた大飢饉です。

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これも社倉のひとつで、地主や家主から支出させた七分積金で金や米を備蓄し凶作に備えた。

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この天明3年の大飢饉が、7年後の寛政2年 1790 に至るまで後遺症となって惨さんたる光景が旅人の目を驚かせています。

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